大正6年3月2日、往診の依頼を受けた医師は布団の中で無惨な姿となった矢作ヨネを発見した。

全身が生傷だらけ、おびただしい火傷の痕、さらに手足の指が切断されているなど、むごたらしい有様で、医師は迷わず警察に通報した。ヨネは治療の甲斐なく2日後に死亡している。


さて、ヨネ殺しの疑いがかかったのは、その夫である小口末吉という男であった。

医師に往診を依頼したのも末吉だったが、医師の「どうしてこんなことになったのか?」という問いには答えず、押し黙ったままだったという。

当然のように逮捕された末吉を、当時の新聞は残忍な殺人鬼として書きたてた。警察も、嫉妬に狂った末吉がヨネを虐待の末、殺してしまったのだろうと捜査を開始した。

だが、ヨネを診断した医師の見解は違っていた。ヨネの体につけられた傷が、末吉の虐待によってついたにしては様子がおかしかったのである。

体中につけられた火傷の痕や生傷は、左右対称につけられるなど、一定の規則性があったのだ。もし、末吉が逆上してつけた傷であれば、このような形にはならないだろう。

一方、警察で供述を始めた末吉の証言から、事件の全貌が明らかになってきていた。

「これらの傷は、みなヨネにつけてくれと言われてつけた。もし嫌だと断れば、別れてやると脅されていた」

この証言が本当であれば、医師の報告とも一致する。事実、その通り末吉はヨネの趣味に付き合わされただけだったのである。

こうして、ヨネに振り回され、とうとう殺人者になってしまった末吉だったが、彼の不幸はそれだけではなかった。末吉は、判決が出る前の大正7年9月23日、脳溢血で亡くなってしまったのだ。