オウム事件を経験した日本人にとって、カルト教団の恐ろしさは今更いうまでもない。

この、ジム・ジョーンズもまたカルト教団の教祖にして、史上最悪の集団自殺事件の首謀者とされた男である。

1931年5月13日に生まれたジョーンズは、非常に不幸な家庭に育った。

父親はKKK(白人至上主義団体)のメンバーであり、ジョーンズが12歳のときに家族を置いて家を飛び出してしまい、母親一人に育てられたという。


ジョーンズが育った町は、敬虔なキリスト教信者たちが住まう土地であり、そんな環境下にいた彼が聖職者を目指したのはごく自然な流れだったのかもしれない。

かくして、聖職者となったジョーンズは、貧しい黒人たちの村で布教活動を行うことにした。しかし、活動は困難を極めたという。

資金繰りには苦労し、しかも黒人と仲良くするジョーンズに対して周囲の目は厳しかった。時には、投石されたり火炎瓶を投げつけられることもあったという。

そうした環境下にあって、ジョーンズは少しずつ歪んでいったのだろう。やがて、彼の布教はどんどん過激になっていき、聖書を投げ捨て、自ら教祖となったのである。

そんなジョーンズの教えは、もはや過激を通り越して異常であった。すると、そのことに気づき、我に帰る信者が現れ始めたのだ。

だが、そうして脱会した信者たちは、謎の死を遂げることとなる。誰がそうさせたのかはもはや明白であろう。この頃にはもう、りっぱなカルト教団の出来上がりである。

もちろん、こうしたジョーンズの教団を世間は放ってはおかなかった。

教団が訴訟の対象となることを知ったジョーンズは半狂乱になり、信者を率いて国外逃亡を図ったのである。

1977年、ジョーンズは約1000人の信者を引き連れて、南米にジョーンズタウンを設立した。しかし、これは決して「楽園」などではなく、ジョーンズの壮大かつはた迷惑な集団自殺の前準備だったのである。

「アメリカの海兵隊がジョーンズタウンを襲撃する」という妄想にかられたジョーンズは、信者たちに毒薬を配り、飲ませた。中には逃げようとした者もいたが、銃殺されたという。

そして、全員が死んだのを確認したジョーンズは自ら銃で自殺したのである。

こうして、史上空前の912にも及ぶ集団自殺は幕を閉じた。

ジョーンズは生前、集団自殺のことを「革命的自殺」と呼んでいたようだが、結局のところ、カルトの恐ろしさを世間に知らしめただけとなったようだ。