1949年(昭和24年)7月15日午後9時23分、国鉄三鷹車庫から7両編成の無人電車が暴走。
時速60kmで電車は脱線転覆しながら線路脇の商店街などに突っ込み、男性6名が電車の下敷となり即死。負傷者も20名出る大惨事となった。

革命を起こすためのきっかけ?

捜査当局は、国鉄労働組合(国労)組合員の日本共産党員10人と非共産党員であった運転士のK・Mによる共同謀議による犯行として彼らを逮捕した。
その動機は1949年(昭和24年)8月に事故によって全国ストライキを起こし、それをきっかけに革命を起こすという目的達成のためとした。

1950年(昭和25年)東京地方裁判所は、非共産党員のK・Mの単独犯行として無期懲役の判決を下し、計画についての共同謀議の存在を否定し他を無罪とした。
これに対し検察は、全員の有罪を求めて控訴・上告したが、K・M以外については無罪が確定した。

K・Mの控訴審で東京高等裁判所は、1951年(昭和26年)K・Mについてのみ検察側控訴を受け入れ、書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、より重い死刑判決を言い渡した。

弁護人は最高裁判所に上告したが、最高裁では口頭弁論も開かれないまま、1955年(昭和30年)6月22日に死刑判決が確定した。
K・Mは死刑判決後も、文藝春秋誌に陰謀説を訴える投稿をするなど無実を訴え続けたが、1967年(昭和42年)脳腫瘍のため45歳で獄死した。

曖昧な供述の背景

K・Mの供述は無罪、単独犯、複数犯など様々な変遷を重ね、最高裁まで7回変更となった。
変更の背景には共産党系の弁護士から「大した刑にもならないし単独犯として罪を認めて他の共産党員を助ければ、出所後に共産党で高い地位に付けられる」などと言われて、共産党シンパだったK・Mがそれを受け入れたためといわれている。

いまだに残る数々の疑問点

事件のテクニカルな疑問点では、電車のマスター・コントローラーを針金で開錠できるのか否かという問題があった。
また、圧力がないとバネで戻るコントローラーのハンドルを片手だけで紙紐によって固定したとされているがそれが可能なのかという問題もあった。
さらには、速度固定のために使われていた紙紐が独特のコイル巻きになっていたが、彼に結べるのかという問題も残されたままだ。

疑問点はまだある。警察は事件が起きるのを事前に知っていたのではないかという疑問もある。
というのも暴走電車によって大破した三鷹駅前の交番には4人の警察官が勤務していたが、事件時は交番を留守にしていたため4人全員が助かった。これは偶然だろうか?
7月15日に三鷹駅で大事件が起きるという噂が事前に警察関係で語られていたという情報もあり、偶然にしては出来すぎているともいえる。

共産党の弁護士にも疑問点がある。
犯行時間とされた時間帯に同僚と風呂に入っていたという彼のアリバイ証言において、検察側は同僚の証言は彼が主張する時間より遅かったとしてアリバイを崩す姿勢を見せていたが、弁護側は有利にもなる同僚の証言を「関連性なし」という理由で証人要求を拒否するなど不可思議な行動を取っている。
つまりどうしても彼一人の単独犯に仕立てたかったかのようなのである。

こうした数々の疑問点を抱えたまま61年目の2010年(平成22年)9月、K・Mの長男が、2回目の再審請求申し立てをする事が明らかになった。
三鷹事件はまだ終わっていないのである。