1949年(昭和24年)8月17日午前3時9分頃 、福島県信夫郡松川町(現福島市)を通過中だった青森発上野行き上り412号旅客列車が、突如脱線転覆した。

列車を牽引する蒸気機関車が脱線転覆、荷物車2両・郵便車1両・客車2両も脱線。
機関車の乗務員3人(49歳の機関士、27歳の機関助士、23歳の機関助士)が死亡した。

レールに大胆な工作跡

現場検証の結果、転覆地点付近の線路継目部のボルト・ナットが緩められ、継ぎ目板が外されているのが確認された。
また、レールと枕木を固定する犬釘も多数引き抜かれていた。
さらに、長さ25m・重さ925kgのレール1本が外され、13mも移動されていた。
周辺を捜索した結果、付近の水田の中からバール1本とスパナ1本が発見された。

下山事件、三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件翌日には内閣官房長官が、三鷹事件等と「思想底流において同じものである」との談話を発表。
国鉄の人員整理に反対する国労と共産党の引き起こした事件との考えを念頭に置いていたことがうかがえる。

国労と共産党の犯行か

捜査当局はこの事件を、当時の大量人員整理に反対し、日本共産党の影響下にあったメーカーの労働組合と国鉄労働組合(国労)構成員の共同謀議による犯行との見込みを付けて捜査を行った。

事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、事件についての取り調べを受けた。
少年は逮捕後9日目に犯行を自供、その自供に基づいて共犯者が検挙された。

9月22日以降、国労員5名及びメーカー労組員計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕、起訴された。

裁判の経緯

1950年(昭和25年)12月6日の福島地裁による一審判決では、被告人20人全員有罪(うち死刑5人)、
1953年(昭和28年)12月22日の仙台高裁の二審判決では17人が有罪(うち死刑4人)、3人が無罪となった。
1959年(昭和34年)8月10日、最高裁は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻した。

差し戻した根拠は、検察側の隠していた「Sメモ」(労使交渉の出席者の発言に関するメモ。被告人達のアリバイを証明していた。使用者側の記録者の名から)の存在と、
犯行に使われたとする「自在スパナ」(犯行に使われた凶器で松川駅の線路班倉庫に1丁あった)ではボルトを緩められないことが明るみに出て、検察の起訴事実は根底から覆されることになった。

1961年(昭和36年)8月8日、仙台高裁での差し戻し審で被告人全員に無罪判決。
1963年(昭和38年)9月12日、最高裁は検察側による再上告を棄却、被告人全員の無罪が確定した。

GHQと警察による謀略か?

この事件は、日本共産党支持層であったメーカー社員らの労働運動を弾圧するためにGHQや警察が仕組んだ謀略であるとする説が事件直後からささやかれた。
事故直前に現場を通過する予定であった貨物列車の運休、
警察が余りにも早く現場に到着した点や、
事件後に現場付近で不審人物を目撃したという男性の不審死などの不可解な部分があり、謀略説の可能性が指摘されている。

事件余話

事件から20年経った1970年(昭和45年)7月、Uと名乗る男が雑誌誌上で「私が事件の真犯人である」と告白。
Uはある機関のメンバーと共にレールを外した一連の工作の経緯を詳細に語ったが、信憑性を疑う見方も多く真偽は不明である。