「夜警の音で眼を覚ますと、若い男が母の枕もとであぐらをかいて新聞を読んでいた。
顔は新聞の影になっていて見えなかった。
そのうち立ち上がって裏口から出ていったけど、
こわくなって泣き出したら、
兄にうるさいと言われたのでそのまま眠った」
家族を惨殺された次男(当時9歳)はそう証言した。

翌7日の午前6時頃、長男(当時12歳)が目を覚ましていたところ、
同じ6畳間で寝ていたOさん(46歳)、その妻(33歳)、長女(4歳)、二女(2歳)の4人が血だらけで死んでいるのを発見、
署員が駆けつけた。1948年1月のことである。

強盗殺人か?

Oさんは短刀で右頚部を8回刺されており、妻は左頚部と後頭部に10ヵ所に刺し傷があった。
長女は絞殺、二女は母親の下敷きになっての窒息死だった。
夫妻殺害の凶器は匕首と思われたが、現場からは発見されなかった。押し入れ内は散乱しており、強盗殺人の疑いがかけられた。
殺害現場の部屋には長男他、次男、三男(当時7歳)が寝ており、
また隣室には老母(当時87歳)が眠っていたのにもかかわらず、すぐそばで6人が殺される事態に誰もその凶行に気づかなかった不思議な事件でもあった。

 

警察の威信

この当時、警察は自治体警察(町警)と国家地方警察(国警)の二系統あり、管轄の町警はこんな重大な事件の捜査にあたった経験が乏しかった。
そこで町警は国警に応援を要請、その日のうちにベテラン刑事数人が配置されることになった。
そのうちの一人の刑事は、様々な事件捜査で表彰された実績があり、「オニ警部」の異名があった。

残された手がかり、現場の状況、家族や近所の人の証言は次のようなものだった。

・犯人は裏口から侵入したものと思われる。
裏手の空地の雪に残った地下足袋、あるいはズック靴の足跡が勝手口に向かって6、7歩分あった。
・O家から西の農業協同組合の板塀の上に、手袋の中に匕首を差しこんだものが発見された。
この場所は逃走経路と見られ、匕首は刃渡り5寸7分、日本刀を切りつめて改造したもので血液も付着していた。
・Oさんの死亡推定時刻は6日午後7時20分から翌午前0時20分までの間、二女は午後11時頃、妻は午前0時頃、長女は午後10時から11時という結果が出た。
つまり午後10時から翌0時までの間、平均して11時頃に犯行が行なわれたのではないかと見られた。
・傍で寝ていた次男の証言「事件の夜、夜警の音で眼を覚ますと、若い男が母の枕もとであぐらをかいて新聞を読んでいた。顔は新聞の影になっていて見えなかった。そのうち立ち上がって裏口から出ていったけど、こわくなって泣き出したら、兄(長男)にうるさいと言われたのでそのまま眠った」
・ベニア板一枚で仕切られた隣家の人の証言。「隣りの子どもが2時半頃起きる音が聞こえた」「Oさんの家の音は、夜中便所に起きる音も聞こえるほど壁は薄い。けれど大きな声や音は聞こえてこなかった」
・現場の6畳間の柱時計は11時2分で止まっていた。この時計には、犯人のものと思われる親指の血染めの指紋が付着していた。
・この指印と同じ血のものが祖母の枕にも付着していた。
・台所の土間に、手拭のような布の燃えかすがあった。
・隣家の人は、事件当日9時にOさん方で時報が鳴るのを聞いており、ラジオのダイヤルは900キロサイクルを指しており、スイッチはONになっていた。

次男の見た若い男は誰なのか

捜査は行き詰まりを見せていた。
そのため、少しでも怪しい者、素行不良の者など300人以上の人間を容疑者として取り調べをしたという。
この際、釈放となった人間が口を揃えて「ひどい取り調べを受けた」と漏らしていた。

2月23日、警察は町内に住む奇術師一家の少年S(当時18歳)を窃盗罪で別件逮捕した。

Sは満州生まれ、家族は両親と弟3人がいた。
小学校高等科を出たあと、叔父の経営していた興行師一座に入り、小屋の電気係を務めて全国各地を巡業した。
48年10月に脱退した後は祖母を頼って当地に戻り、1年ほどゲタ工場に工員として働いていたが、父親が中華そばの屋台を始めてからはそれを手伝っていた。

麻雀が好きで、小遣いに困るとコソ泥を働き、以前に背広やジャンパーを盗んで、警察の世話になったことがあった。
異人の血が入り、芸人の子であることは、この小さな町に暮らす人々から白い眼で見られることになった。捜査陣はそこに狙い目をつけた。
逮捕後、二俣署内の土蔵の中で行なわれた取り調べは過酷を極めたとされ、2月27日にSはついに「自分がやりました」と自白した。

自白調書

・動機:麻雀のバクチが大好きで、のめり込むあまり金に困ってやった。
・匕首の入手先:1月5日午後8時頃、家の近くのゲタ工場の縁の下に黒っぽい服を着た男が何かを隠して行ったのを見て、その場所に白い天竺の布の中に匕首があった。それを自分の家に持ち帰った。
・手袋の入手先:1月6日午後6時半頃に、広い道路に面したところにあった丸太の上に落ちていた。
・当日の行動:午後7時半頃、家で夕食をとった後、昨日拾った匕首を皆に見せようと思い、縁の下から取り出し、ズボンのポケットに入れ、新町の方に歩いて遊びに行った。
貸し本屋や電器店などいくつかの店を冷やかしていたら8時半になり、友達にも会えないのでうろうろしていたところ、なんとなくOさん宅であるバラックの前を通りかかった。
人の声がしなかったため、裏口のガラスをそっと開けてみると鍵はかかっていなかったので侵入した、部屋内を物色した。
・殺害時刻:午後9時頃
自白調書によると、SがOさん宅に押し入り、殺害したのは午後9時ごろとなっていたが、
Sは事件当夜の11時前後から、町の遊郭付近の路上で父親の屋台の手伝いをしており、麻雀店の女主人も11時頃にSが出前を持ってきたことが証言していた。
遺体鑑定による午後11時前後殺害と食い違う。

しかし警察は「おまえが時計の針を動かして犯行時刻を偽装したのだろう。一体どこから思いついたのだ」と追及した。
これはSが愛読していたという探偵小説の中に、江戸川乱歩著の「パレットナイフの殺人」があったからだった。
この小説では犯人が殺した相手の腕時計の針を回して止め、アリバイを作るという偽装工作がでてくる。警察はこれを参考にしたのではないかと見たのである。

3月17日、Sは殺人で起訴された。

警察内の内部告発

第1回公判の前日、Sは「私の自白は警察の酷い取調べによるものであります。私は真犯人ではありません」という上申書を提出した。

また審理が進み、判決が迫ったある日、事件捜査に加わっていた署内の巡査の投書が読売新聞に掲載された。そこには「Sは拷問によって自白させられたもので真犯人ではありません」と記されていた。

この巡査は当初から国警主体の捜査に疑問を持っていた。
現場の状態などから「Sをクロとする事実は見当たらない」と進言していたが、国警刑事は耳を貸さず、巡査は特捜班から外され、さらに刑事係から他の係へ移されていた。

12月25日、巡査は証言台に立つ。
巡査はS逮捕の前にも何十人かの容疑者に拷問があったことを明らかにした。
上司である署長が反論する。
「事件発生当日の朝、巡査は二俣署の刑事室におったという事実はありません。また巡査は事件発生直後、私を自宅に自動車で迎えに来たのであります。彼は事件現場に足を踏み入れていないはずであります。巡査の勤務状態は異常であります。性格は変質的で、嫌いな客が来ると、お茶の中にツバやフケを入れて出す。上司が留守の晩などは、どこかに火事が起これば良いと神様に頼む始末であります」

署長と警察は巡査を精神異常者であるかのように仕立てたのである。
この後、巡査は辞職を勧められ、これに従った。だがそれでも独自の調査は続けた。

この事件を独自に調査している人物は他にもいた、元刑事のKさんである。
民間有志という立場で捜査協力し、元刑事もまた、法廷でSをシロとする証言を行った。

1950年12月27日、静岡地裁浜松支部はSに死刑を言い渡す。
裁判所は巡査、元刑事の証言を無視し、署長の証言を全面的に採用したのである。

同じ日、巡査は偽証罪で逮捕、免職となった。
拘置所に入れられた巡査は精神鑑定を受け、その結果「妄想性痴呆症」という診断が下された。
巡査は起訴されなかったものの、その後自宅が不審火により焼失し、裁判資料などもすべて燃えてしまい、再び事件の証言台に立つことはできなかった。

弁護士へ届いた1通の手紙

1951年9月、東京高裁で、控訴棄却。
この頃、ある弁護士のところにある手紙が届く。
「事件の犯人とされているS少年は、どうもほんとうの犯人とは思えないフシがあるから、あなたの力でぜひ弁護してやっていただきたい」という内容のもの。
弁護士はすぐにSの主任弁護人となり、最高裁に上告した。

1953年11月、最高裁は原審を破棄、裁判のやりなおしを命じた。
その根拠となったものは、Sの足は24cmで現場に残された足跡と大きさが異なること、
返り血が着衣に付着していなかったこと。匕首入手の経緯があまりにも空想的であることなどであった。

1956年9月20日、静岡地裁は無罪判決を言い渡す。
窃盗の件は本人も認めたため有罪となったが、執行猶予となっている。
1957年10月26日、東京高裁で控訴棄却。一家4人殺しの無罪が確定した。

拘置所を出たSは、両親に抱きついて泣き、同じく出迎えた元刑事Kさんも涙を止めることができなかった。